サッカーに救われた人生、今度はサポートする立場に 第1回-1
- 2021/5/21
- インタビュー
合同会社ヴェントレス 代表取締役 中尾 拓 様
1981年生まれ、京都市出身。2005年より約10年間プロサッカーコーチとして、現場指導並びにクラブ経営・連盟(大会運営委員長)に従事。
2013年からINAC神戸にて、アカデミー統括ディレクターとして組織構築・選手コーチの育成、ホームタウンマネージャーとしてゼロから年間160か所以上のイベントへチーム出演連携を実施。
2020年1月にLLC Veintress(合同会社ヴェントレス)を設立し、【人が育つ環境づくり】をテーマに、イベント企画運営やクラブや企業のサポート、人材育成・地域創生・ソーシャルビジネスに取り組んでいる。
中尾さんの会社やお仕事にまつわる様々なお話を伺っていこうと思っています。
大変恐縮ですが、まずは自己紹介をお願いしても宜しいでしょうか。
はい もちろんです。 私は中尾拓と申します。現在、40歳で合同会社ヴェントレスという2期目の会社の代表を務めています。本日はどうぞよろしくお願いします。
現在2期目の会社の代表ということですが、それまでどういうキャリアを歩んできたのでしょうか。
私は2003年に高知大学教育学部を卒業したのですが、小学校から大学卒業までずっとサッカー一筋で過ごしてきて、当然のようにサッカー選手を目指していました。
大学4年時に当時日本サッカーリーグ(JFL)所属の大塚製薬サッカー部(現Jリーグ徳島ヴォルティス)から運よく声をかけて頂き、在学中に教員免許も取得していたので、教員になるかどうか迷いましたが、小さな頃からの夢であるサッカー選手になる道を選びました。
卒業後18年経ちましたが、それまでには個人事業主として約13年、会社員として約3年仕事をして起業するに至りました。
小さな頃からの夢がサッカー選手だったとの事ですが、何故在学中にオファーがきたのに迷われたのでしょうか。
まずJFLというリーグはプロリーグではないので、皆さんが想像するようなJリーグ所属の選手のようなお給料を頂くことは出来ません。
在学時に教員免許を取得し、安定しているイメージもあったので教員を目指すことも真剣に考えました。
ただやはり小さな頃からの夢であるサッカー選手を選び、大塚製薬サッカー部に入団することを決意しました。
結果的には約2シーズン所属はしましたが、出場は数試合のみで契約満了となりました。
まあ簡単にいうとクビですね。
その時の心境は如何でしたか?
もちろん非常にショックでした。
自慢ではありませんが、小学校から大学生までほとんどレギュラーとしてプレーをしていました。
しかしながら、大塚製薬サッカー部時代では怪我をした影響もありますが、公式試合にほとんど出場できず辛い日々を過ごしました。
チームのレベルも高く、実際私が退団した次の年にはチームはJリーグ2部に昇格しました。
どんなスポーツでもそうですが、実力勝負ですし、プロを目指すようなチームのメンバーは意識も非常に高かったので、クビになるのも納得せざるを得ませんでした。
その後はどういった活動をしていたのでしょうか?
クラブを退団することが決まった時に現役選手を続けるかどうかで迷ったのですが、怪我をした膝の状態もあまり良くなる見通しも立たなかったので、きっぱり選手を引退することにしました。
退団時に大塚製薬さんからは選手としては無理だが、サラリーマンとして入社しないかと声をかけてもらったのですが、
当時の私は今まで私を育ててくれたサッカー界に何か恩返ししたいという想いがあり、
何かの形でサッカーに関わる仕事がしたかったため、その話もお断りさせて頂きました。
今思えば、もったいなかったかもしれません(笑)
そこから9年間は、資格を取りながら様々な学校やクラブチームでサッカー指導者として活動しました。
具体的には日中は学校の非常勤講師として働き、夕方からはサッカーの指導者として活動するといった感じです。
その間、クラブ経営や連盟の業務などもさせていただきました。
その後はINAC神戸レオネッサという女子サッカークラブで約4年間働き、アカデミー統括ディレクター等を務めました。
今思えば、この4年間だけ会社員としての契約で働きました。
スペシャルインタビューは全4回
第2回 自分を助けてくれた高知に恩返しをするべく様々なイベントを開催